小野田嘉幹(おのだ よしき)
監督。妻は三ツ矢歌子、弟は平田昭彦、妹は音羽美子。
1925年、東京府東京市(現在の東京都)生まれ。
1947年、新東宝助監督部に入社。石井輝男は同期である。
本名の小野田正彦で、黒澤明、稲垣浩、並木鏡太郎、冬島泰三らに師事する。
1958年、若山富三郎主演のSP『楠公二代誠忠緑』で監督デビュー。
同年、現在の名前に改名し、『人喰海女』で再デビューした。その後、大蔵体制下で連作し、1960年自作『女奴隷船』に出演した三ツ矢歌子と結婚した。
1961年8月31日に新東宝が倒産し、同社のプロデューサーだった佐川滉が設立した佐川プロダクションで『黒い傷あとのブルース』を撮るが、以降はテレビ映画の監督に専念し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」など多数を手掛ける。
晩年になり久々に『鬼平犯科帳』『伊能忠敬 子午線の夢』という2本の映画を監督する。
2004年、妻、三ツ矢歌子と死別、2006年、妻の回想緑「桜は二度咲いた」を上辞する。
1958年、若山富三郎主演のSP『楠公二代誠忠緑』で監督デビュー。
同年、現在の名前に改名し、『人喰海女』で再デビューした。その後、大蔵体制下で連作し、1960年自作『女奴隷船』に出演した三ツ矢歌子と結婚した。
1961年8月31日に新東宝が倒産し、同社のプロデューサーだった佐川滉が設立した佐川プロダクションで『黒い傷あとのブルース』を撮るが、以降はテレビ映画の監督に専念し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」など多数を手掛ける。
晩年になり久々に『鬼平犯科帳』『伊能忠敬 子午線の夢』という2本の映画を監督する。
2004年、妻、三ツ矢歌子と死別、2006年、妻の回想緑「桜は二度咲いた」を上辞する。